紙幣のデザインが一新されることが発表されました。
そして、紙幣に描かれる肖像画は、1万円札が渋沢栄一、5千円札が津田梅子、千円札が北里柴三郎を予定していることも明かされました。
3人とも歴史の教科書にも載っている近代史の有名人ではありますが、お札の顔になることでさらに身近な歴史人物となっていくことでしょう。
【刷新】新紙幣は2024年度上期、新500円硬貨は21年度上期をめどに発行へhttps://t.co/fUsP6zjXEW
1万円札 表:渋沢栄一 裏:東京駅丸の内駅舎
5千円札 表:津田梅子 裏:藤の花
千円札 表: 北里柴三郎 裏:富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」 pic.twitter.com/OsCnKhYy9y— ライブドアニュース (@livedoornews) 2019年4月9日
さて、保険業界ではたらく私たちにとって注目すべきは、もちろん渋沢栄一です。
渋沢栄一は、今からちょうど140年前の明治12年(1879年)、三菱財閥の岩崎弥太郎らとともに、日本で最初の保険会社・東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険株式会社)を設立した人物です。
そう、これから1万円札の顔になる人物は、保険業界にとっても偉大な人物なのです。
しかし、渋沢栄一が具体的に何をした人なのか?と聞かれても、すぐにパッと答えられない…という方も多いのではないでしょうか?
今回は、渋沢栄一がどんな人物か、少しだけご紹介したいと思います。
新1万円札の顔・渋沢栄一氏とは?
●生年月日:1840年3月16日(天保11年2月13日)~1931年(昭和6年)11月11日(満91歳没)
●出身:武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)
渋沢栄一は、“日本資本主義の父”と呼ばれ、東京海上保険以外にも、日本最古の銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)、東京瓦斯(ガス)、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京慈恵会、日本赤十字社、一橋大学、東京経済大学…といった様々な企業や学校の設立・経営に関わってきた人物。
約500もの企業の設立に関わり、約600もの教育機関・社会公共事業の支援を行ってきたとされています。
いったい何者!?って感じですね。
渋沢栄一は、”深谷ネギ”で有名な埼玉県深谷市の生まれで、渋沢家は、藍玉の製造・養蚕・米・麦・野菜などを手掛ける豪農。
ちなみに深谷市では、渋沢氏の命月である11月が”渋沢栄一記念月間”に指定されるなど、現在でも地元でも愛されているようです。
栄一少年は、幼い頃から家業を手伝いながら、父・市郎右衛門から学問の手ほどきを受け、7歳になると下手計のいとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。
家業では、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められ、また、14才になると単身で藍葉の仕入れに出かけるようになるなど、偉大なビジネスマンとしての素地を作っていくこととなります。
彼の著書『論語と算盤』は、あまりにも有名ですね。
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高崎城の乗っ取り計画を企てるなど、20代の頃には倒幕思想を抱いていた時期もあったようですが、1866年、渋沢氏が26才の時には、京都で一橋慶喜(後の江戸幕府15代将軍・徳川慶喜)に仕え、27才の時に、幕臣としてパリ万国博に派遣されます。
そして、欧州諸国の実情に触れた渋沢氏は、帰国後、日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府の大蔵省に仕官するこになります。
そして、大蔵省を辞めた後は、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、様々な企業の設立や教育機関の支援に携わることとなってゆくのです。
東京海上保険の設立
(写真は、現在の東京海上日動ビル)
東京海上保険は、当時、業績を伸ばしていた海運・貿易業に欠かせない海上保険会社を設立する動きがある中、渋沢栄一の提唱により設立されました。
経営陣には、頭取に蜂須賀茂韶氏、取締役に華族や三菱関係者、支配人に益田克徳氏、そして相談役として渋沢栄一氏と岩崎弥太郎氏を置きました。
社員数は、全体でも10人前後と小規模だったようです。
創業当初の取扱商品は貨物保険のみで、創業年1879年12月までに、釜山浦、上海、香港を含む18カ所に海外の代理店が置かれていきました。
また、1880年9月には、三井物産のロンドン・パリ・ニューヨークの各支店に欧米での代理店委嘱も行われ、1884年2月からは船舶保険の引き受けも開始しました。
(引用:東京海上日動の歴史)
日本における近代保険制度の誕生
ところで、1万円札と言えば、現在の肖像画は福沢諭吉先生ですが、この福沢先生も保険業界の歴史を語る上で欠かせない重要人物ということをご存知でしょうか?
むしろ、福沢諭吉がいたからこそ、現在の保険業界があると言っても過言ではありません。
というのも、わが国における保険のはじまりは、福沢諭吉が、欧米の文化の1つとして近代保険制度を紹介したことがきっかけとされています。
福沢諭吉と言えば、1万円札以外にも、“天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず”のフレーズで知られる『学問のすゝめ(すすめ)』や、あの慶応義塾大学の創始者としても有名です。
中津藩(今の大分県)の武士の家に生まれ、学問研究の道に進んだ福沢は、幕末、幕府の命令によりアメリカやヨーロッパなどに渡り、欧米の政治・社会・文化について学びます。
そして、慶応3年(1868年)、欧米の様子を記した著書『西洋旅案内』の中で紹介した制度の1つが「保険」でした。
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著書の中では、“保険”という言葉ではなく“災難請合”として、「生涯請合(生命保険)」、「火災請合(火災保険)」、「海上請合(海上保険)」の3種類の保険制度を紹介。
災難請合(さいなんうけあい)とは、商人の組合ありて、平生(へいぜい)無事の時に人より割合の金を取り、万一其人へ災難あれば組合より大金を出(いだ)して其(その)損亡を救ふ仕法(しほう)なり。
つまり、災難請合とは、普段から一定の割合のお金をみんなで出し合い、万が一のことがあればその集めたお金を支払う仕組と説明しています。
これが、日本における近代保険制度のスタートでした。
そして、1881年(明治14年)には、福沢諭吉の弟子・阿部泰蔵氏によって、現存している最古の生命保険会社「有限明治生命保険会社」(現・明治安田生命保険相互会社)も開業されました。
(画像:明治安田生命保険相互会社 本社ビル)
ということで、今回は新1万円札の顔に決まった渋沢栄一、そして現1万円札の顔・福沢諭吉、そして、保険の歴史について紹介しました。
このように考えると、保険の歴史とは、紙幣、お金の歴史なのだ…と思い知らされますね。